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大前研一メソッド 2019/02/22

戦後70年間首都圏に残る米軍の“占領状態”



大前研一(BBT大学大学院 学長 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

現在、東京国際空港(羽田空港)は年間約45万回の発着枠があります。このうち9万回分が国際線に割り当てられています。2020年東京オリンピックの開催に向けて、政府は羽田の国際線発着枠を増やす方策を検討してきました。ですが、羽田空港のキャパシティはほぼ限界となっており、現状ではこれ以上、発着枠を増やすことは困難です。

そこで政府は、都心の上空を通過して羽田空港に着陸する新しい飛行ルートを策定、オリンピックが開催される2020年までに新ルートを導入することで年間4万回の発着枠を確保(1日あたり約50便)し、そのうちの24便を日米両国の航空会社で12便ずつを分け合うことで日米両政府が合意しました。

新しい飛行ルートを策定するにあたっては、米国との調整が必要でした。日本の空のはずなのに、なぜ米国との調整が必要なのか、大前研一学長に聞きます。

首都の空を米空軍が支配し、民間旅客機は自由に飛べない

野上浩太郎官房副長官は1月末、羽田空港の国際線の発着枠を増やす新たな飛行ルートについて、日米の交渉が基本合意に達したと発表した。これにより、羽田への飛来便は在日米軍の横田基地が航空管制を担う「横田空域」を一時的に通過できるようになり、その通過する時間帯は日本側が管制を行う。2020年の東京五輪・パラリンピックを前に運用が始まる。

この問題は、日本にとって長年の懸案だった。横田基地は東京・多摩地域の福生市など5市1町にまたがり、その管制空域は1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ。米国空軍にとって重要な空域で、日本の民間航空機は自由に飛べなかった。

羽田空港から飛び立って北に向かうロシア経由、欧州経由の旅客機、あるいはロシアのほうから戻ってくる旅客機にとって、まさに〝高い壁”になっている。また、羽田や成田空港から西日本に向かう発着便も、1回太平洋上まで出てから大きく急旋回しなければならない。

▼資料:横田空域の立体図のイメージ(最終アクセス:2019/02/22)
https://gendai.ismedia.jp/mwimgs/a/0/640m/img_a0ee541586cd1f3fdbdc957dc5dbb2d5104718.jpg

日本の空の管制権は、敗戦で連合軍が掌握した後、日米地位協定に基づき、米軍の管理下に置かれている。今日に至るまで70年にわたって“占領状態”のままだ。

何とかしなければいけないということで、石原慎太郎氏は1999年に都知事選に立候補した際、横田基地の「管制空域返還」と「軍民共用化」を唱えた。しかし、航空自衛隊の一部司令部が移転するなど「軍軍共用化」は進んだものの、ほかは弾き飛ばされ、その後はこの問題について石原氏は言わなくなった。

今回、その一部が通ることができるようになった。どのくらい影響があるかというと、6万回の発着が9万9000回に増えるという。少なくとも50%以上増えた。横田空域を通るということで、飛行時間も短くなった。

ただ、“占領状態”が若干緩んだとはいえ、米空軍がコントロールしているという状態は変わらない。日本には在日米軍駐留経費の一部を負担する「思いやり予算」というものがあり、米軍も日本に重要基地を置いたほうが安上がりと考えている。

米海軍は横須賀、米陸軍は横浜のそれぞれ一等地を支配

米空軍が横田なら、海軍は横須賀港だ。ハワイのホノルルに司令部を置く太平洋艦隊の指揮下にあり、西太平洋・インド洋を担当海域とする第7艦隊が前線から帰還する基地になっている。揚陸指揮艦ブルー・リッジも、第7艦隊旗艦として横須賀港を母港にしている。

一方、米国の陸軍は横浜港の瑞穂埠頭(ふとう)にある港湾施設「ノースピア」を持っている。陸軍がいなくなって、ヘッドクオーター(司令部)もなくなってしまったのだが、瑞穂埠頭はまだ返還されていない。

ここは横浜のど真ん中にある。だから、IR(カジノを含む統合型リゾート)を横浜がやりたいのであれば、瑞穂埠頭を使うのが一番いいはずだ。

横田空域は、米軍基地周辺の管制業務について「米政府が行う」とした1975年の日米合同委員会の合意に基づいている。合同委員会は日米地位協定に根拠規定がある。日本政府は地位協定の改定を正式に提案したことはない。

しっかりとした考えの政治家が出てきて、国民の意見を背景に外交力と説得力を駆使して取り返さなくてはならない重要案件だと思う。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学名誉教授。