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大前研一メソッド 2020/08/17

李登輝氏の訪日を画策するも日本政府が阻止した秘話を大前研一氏が明かす



大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

台湾の総統だった李登輝氏が2020年7月30日に死去しました。李登輝氏が台湾の総統だった当時、台湾の経済顧問をしていたのがBBT大学院・大前研一学長です。李登輝氏との親交が深かった大前学長に李登輝氏のエピソードを聞きました。

ニクソン訪中で米国が台湾を切り捨て

亡くなった李登輝氏が台湾の総統だった当時、私は台湾の経済顧問をしていた。思い出がありすぎて、短いコラムでは入りきれない。

1972年の米国リチャード・ニクソン大統領(当時)の訪中をきっかけに、中国は国連安全保障理事会の常任理事国のメンバーになり、それまで常任理事国であった台湾を国連から追い出した。

私は李登輝氏に対し、国連復帰より「あるがままの台湾」(Taiwan as such)を提唱した。台湾をピカピカに磨き、世界中から尊敬されることを目指そうということである。実際、今回の新型コロナの対処でも台湾は世界から称賛されている。

また、中国との関係についても、私は「コモンウェルス・オブ・チャイナ」、つまりシンガポールや香港など中国人の多い国や地域を集めて、英連邦のような緩やかな連合体の「中華連邦」を提唱した。

台湾と中国の交流窓口機関が1992年に会談したときも、これを踏まえてシナリオを作った。台湾工商協進会の辜振甫(コ・シンポ)理事長、中国・上海の汪道涵(オウ・ドウカン)元市長が参加したこの会議で、中国側はかたくなに「中国政府が台湾を含めた全中国を代表する唯一の合法的政府」という「1つの中国」を主張した。

一時は「コモンウェルス・オブ・チャイナ」という私のアイデアに興味を持った李登輝氏も、その後、「一党独裁で民主的な選挙もしない中国とは一緒にやることはできない」と言い続けた。

新竹科学工業園区を建設、台湾IT産業の発展の礎を築く

政治家として老練なところもあった。中国大陸に残した戸籍が、いわゆる外省人(第二次大戦後に中国大陸から台湾に移住した人)の間で問題になっていた。立法院(議会)の勢力も外省人が強かった。

私は「戸籍を台湾に替えてしまえばいい」とアドバイスすると、李登輝氏は「時が解決する問題はいじらない」と言う。中国大陸から来た人も年をとっているから、放っておけばいつかいなくなるということである。時が解決する問題はいじらず、いまは台湾の民主化に力を注ぎたいというわけ。そういう独特の発想をする人だった。

また、新竹市にTSMCやUMCのようなIT関連の工場や企業を集中させて「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる新竹科学工業園区を建設したことも大きな功績である。台湾のハイテク産業が強くなった最大の要因だ。台湾には徴兵制があるが、大学院の工学部、理工学部に進むと徴兵制を免除した。これがさらに台湾のハイテク産業を伸ばし、米国などに留学した人がそのまま米国に居ついてYahoo!やNVIDIAなどを起業した。

訪日を切望、2000年に総統を退任した後に来日がかなう

李登輝氏は総統時代、「日本に行きたい」と願っていたのに、中国への遠慮から日本の外務省は査証(ビザ)を発給しなかった。私は「長野の蓼科の別荘に遊びに来て」と個人的な招待状を出したりして試みたが、首相時代に訪中した田中角栄氏の流れをくむ竹下派の政治家たちに李登輝氏の訪日を阻まれた。

李登輝氏は京都帝国大学(現京都大学)に昭和18年(1943)年に入学している。そこで京大出身の「住友銀行中興の祖」磯田一郎氏や、サントリー創業者・鳥井信治郎氏の三男で同社名誉会長の鳥井道夫氏らが同窓会を開いて李登輝氏が私的訪日をできるように画策したこともある。私は小渕恵三元首相と仲がよかったので、「同窓会はどうか」と頼んだが、「いやあ、私も竹下派なんで台湾問題には手を出せない」と言われた。

結局、総統を辞めた後の2001年、心臓病の治療のため、岡山県は倉敷市の病院を訪れることで人道的理由でやっと入国が許された。その後、2007年に、念願だった芭蕉の「奥の細道」を歩くことも実現している。李登輝氏は亡くなるまで波瀾万丈の人生だったが、日本への愛は不変だった。

享年97。謹んでご冥福をお祈りする。

※この記事は、『大前研一のニュース時評』2020年8月9日、を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。