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BBTインサイト 2019/04/03

大前研一流 問題解決手法とは?(3)私が「PSA=プロブレム・ソルビング・アプローチ」の伝道師になるまで



大前研一(BBT大学大学院 学長)
編集・構成:mbaSwitch事務局 / BBT大学オープンカレッジ

私が、納得のいくまで質問をする習慣や物事を論理的に質問する能力を身につけたのは、マッキンゼーというコンサルティング会社に 20年以上も在籍していた経験が大きいと思います。しかし、実は私はマッキンゼーが経営コンサルティング会社だと知らずに入社しました。

それまで私は大学3年生の時から日立製作所までの9年間、原子炉の勉強をしていました。日立では高速炉の炉心を設計していたのです。しかし、その頃すでに原子力発電が継子扱いされる今日の状況は予見できたので原子炉に見切りをつける決意をしました。そうして、日立の上司に「原子炉設計者としてやってきた以上、原子炉を辞める時は日立を辞める時です」と言って退社させてもらいました。

日立を辞めると決めて次の仕事を探していたら、ヘッドハンティング会社が出していた「ケミカルエンジニア募集」という広告をジャパン・タイムズで見つけました。ケミカルエンジニアならできると思って応募したところ、ヘッドハンターから「ケミカルエンジニアよりも面白い『マッキンゼー』という会社があります。あなた、すぐ行ってください」と紹介されて転職したのです。私のような経歴の人間を採用したということは、エンジニアリングのコンサルティング会社に違いないと思い込んでいました。ところが、いざ行ってみたら、経営コンサルティング会社だとわかりました。

「へっ? 経営コンサルティング会社って何をするんですか?」と聞いたら、「経営を指導します」と言うのです。私はたいへん困りました。

その頃の私は原子炉のことだけをやってきており、経営のケの字も知りませんでした。価格やコストという言葉も、発電コスト以外は聞いたことがありません。その頃の私はテレビを持っていなかったし、新聞も取っていませんでした。世間と隔絶した生活をしていたので、一般常識も皆無。世の中で何が起こっているのか全く知りません。ましてや経営やビジネスには生まれてこのかた興味をもったことがなかったのです。しかも、当時の私は、まだ 29 歳。普通、日本の大企業の経営者は65 歳前後です。若輩者の私がどうやって指導すればいいのか、見当もつきません。「いやはや、とんでもない会社に入ってしまった」と思ったものの、入社してすぐクビになるのは悔しい。

そこで、とにかく経営について一から勉強することにしました。マッキンゼーでは、先程述べた質問の仕方や考えるプロセスだけでなく、経営やコンサルティングの仕方についても誰も教えてはくれません。最初の一年間は、ただひたすら勉強をしたものです。

就業時間内は翻訳の仕事や海外からの日本市場に関する問い合わせに答える仕事をして、アフター5と休日は、ずっと会社内のライブラリーに籠もりました。そこでマッキンゼーが手がけた仕事のデータを収めたマイクロフィッシュ(印刷物を縮小複写したマイクロフィルムのカード)を読み耽ったのです。その結果、私はマッキンゼーの業務内容と問題解決手法を理解し、実際の仕事をあまりしないうちに、当時の先進的なコンサルティングの手法も頭に入れることができました。

数ヵ月後、私は日本企業のアメリカ進出に関する初仕事を任されました。その時のディレクターが後にトム・ピーターズと一緒に「エクセレントカンパニー」を書いたボブ・ウォーターマンで、マネージャーがJ・アビーでした。この二人に、私は最初のオン・ザ・ジョブ・トレーニングを受けたのです。

マイクロフィッシュを読み込んでいたおかげでやるべきことは大体わかっていました。しかし、私には変な弱点がありました。原子炉一筋で9年間やってきたため、経営用語を原子炉用語に置き換えなければ頭がうまく回りません。たとえば、「儲かるということは、中性子が臨界以上になっていて核分裂が持続するということだな」という具合です。そんな私に向かって、アビーさんはいきなり「まず、ブレーク・イーブン・アナリシスをやろう」と言いました。

損益分岐分析のことなのですが、意味がわからなかった私は「骨でも折れるのかな、弱っちゃったな」と思って聞いていました。話が通じないことを不思議に思ったアビーさんが質問してきました。

「君はビジネススクールに行ったことがないのか?」
「ありません。私はエンジニアです」
「どうして、君のような人間がこの会社に入ってきたんだ?」
「採用した人に聞いてください」

間の抜けたやりとりでした。業を煮やしたアビーさんは「お前は雄牛についたオッパイみたいなやつだ」と私を罵りました。雌牛のオッパイは使えるが、雄牛のオッパイは使いようがない、つまり役立たずという意味です。生まれて初めて味わう屈辱でした。

ところが、実際に損益分岐分析をやってみたら、実に簡単でした。原子炉設計では拡散方程式や輸送方程式、ベクトル、マトリックスなどの複雑な計算式を使っていたのに、損益分岐分析には加減乗除しか必要ないからです。加減乗除だけで問題が解決できて金が稼げる経営コンサルタントというのは不思議な商売だな、と思ったものです。

現在の私からは想像できないかもしれませんが、もともと私は人前で話すのが苦手な、すごい恥ずかしがり屋でした。女性がたくさんいてジロジロ見ているような気がするのが嫌で、デパートにも行きませんでした。いつも母親が「人付き合いが悪い」と嘆いたほどです。そういう内向的な人間でも原子炉設計者は務まりましたが、マッキンゼーではそうはいきません。

経営コンサルタントは人と付き合わないといけないし、人前でプレゼンテーションしなければいけません。人から会社や業界のことなど、いろいろなことを聞き出せなければ仕事になりません。そこで、私は一計を案じ、プレゼンテーションやインタビューの練習をすることにしました。録音テープを回し、目の前にクライアントの社長がいると仮想して、問題分析とそれを解決するための方策を話したのです。外国のクライアントの場合もあるので、英語でもやりました。その録音テープを聞いて、説得力がないと思ったら、内容を修正してまた話す。それを納得できるまで何度でも繰り返します。

また、毎朝の通勤電車の中では短時間で問題を分析して解決策を提案する練習をしました。電車に乗って最初に見た広告でその日のテーマを決め、横浜駅から東京駅までの 28 分間に窓を眺めながら問題を解決する方法を考えるのです。

たとえば、その日最初に見た広告がケチャップの広告なら、自分がケチャップメーカーの社長から「もっと売れるようにしてほしい」と頼まれたと仮定します。そして、あの宣伝の仕方で売れるだろうか、ケチャップとトマトジュースは同じ売り方でいいのだろうか、といった問題について東京駅に着くまでに頭の中で自分の意見をまとめるのです。

だんだん慣れてきたら、1日1テーマではなく、1駅ごとに別の広告に目をやって、次の駅に着くまでにその問題解決方法の組み立て、仮説、やらなくてはいけない分析などをすぐに頭の中で組み立てる練習をしました。このトレーニングを毎日、徹底的に行うことによって、1年で頭がパッパッと動くようになり、お客さんが一言いえば、その解決策が瞬間的に頭の中で組み立てられるようになりました。と同時に、経営用語を原子炉用語に置き換えなくては理解できないという妙な現象も消えていきました。

結果論ではあるのですが、私が理工学部しか出ていないビジネスの世界の門外漢であったことは良かったのかもしれません。この会社の収益を上げるにはどうしたらいいか、シェアを上げるにはどうしたらいいかといったことを考え、工夫しながら自分なりのやり方を構築していくしかなかったのです。

さらに、そのもっと手前で、なぜ収益が悪化しているか、シェアが落ちているかという原因分析、すなわち根源的な問題発見法を自ら開発していかなくてはならず、結果として「問題解決法」という独自のツールを作り出すことができたからです。このツールは後にマッキンゼーで使われるようになり、ツールのエッセンスが『企業参謀』(プレジデント社)という本にもなりました。

他にも、現在の私の仕事のスタンスを形作っていくような様々な経験を、コンサルタントを通じて積むことができたといえます。たとえば、私は企業だけでなく、国家のコンサルティングの仕事もしてきました。私は 18 年間、マレーシアのマハティール元首相のアド
バイザーをしていました。マレーシアの問題に関する相談を受けていたのですが、いつも最初の 5 分ぐらいで納得してもらえる答えが言えました。なぜそういうことができるかというと、いつも頭を整理して瞬時にピラミッドストラクチャーや、イッシューツリーが出てくるようにしているからです。

マハティール元首相から「大前さんは以前、この問題について考えたことがあるの?」とよく言われましたが、そうではありません。問題解決法を死ぬほど訓練してきたからすぐわかるようになったのです。マレーシアに限らず、いろいろな国にも出かけて行きました。外国に行くと、国によってまったく違う問題にぶつかります。私はどこの国に行っても、何か質問されたときには自分なりの考えを言えるようにしようと思い、データや情報の収集を怠らないようにしました。そして、この国は自分が知っている国とどこが違うのか、仮に自分がこの国のこういう立場の人間だったらどういうことを言うのかと常に考えたりもしました。

この訓練は非常に役に立ちました。現地に着いてから空港から会議や演説の会場に行くまでの間に、迎えに来た人からその国の基本的な情報を聞いたりするだけで、自分の考えがまとまったのを記憶しています。

人との出会いもたいへん大きいものでした。今でも覚えているのが松下幸之助さんやオムロンの立石一真さんなど、名経営者と言われる方々のことです。彼らは、私のような若輩者に対してもよく「これはどういうこと?」「これについてどう思いますか?」と、よく質問をされました。

日本では何でも知っている、すなわち質問をしない人間が「できる人間」と思われるようですが、それは間違いなのだと気づかされました。私の知る限り、世界的にトップクラスの経営者の方は、みな好奇心に富み、質問を投げかけてくる人ばかりだったのです。

疑問に思ったことを率直にぶつけ、そこから問題点を洗い出し、解答を見つけ出してゆく。それができることこそ、名経営者である所以だと気づかされました。

他にも私を成長させてくれた仕事はたくさんありました。私は、極力仕事を選り好みしないようにしていました。なぜかというと、実際マッキンゼーの中で見ていて、「この仕事は嫌です。こっちの仕事をやらせて下さい」と言っている社員に限って、コンサルタントとして伸びていなかったからです。本当は気の進まない仕事をすることも成長するための肥やしになるのでしょう。

私自身でいうと、アメリカ進出に失敗した日本企業があって、その工場を閉鎖することを任されたことがあります。治安の悪い場所で、ヘタをするとピストルで撃たれかねない仕事でした。アメリカ人ですら行くのを嫌がったところですが、それを引き受けたのです。実際、このときは工員からピストルを突きつけられもしました。話している間は撃ってこないだろうと一晩中話し続けていた覚えがあります。

そもそもコンサルタントの仕事に面白くない仕事はないと思います。「面白くない仕事のやり方」があるだけなのです。そして、面白くない仕事のやり方を続けているような人は、コンサルタントとして一流になれない、そういうことを実地に学びました。

このように様々な経験を経て、気が付くと私は、本社重役はもとより重要な会議メンバーはすべて歴任、社長以外のポジションは 39 歳までにすべて経験をしたのです。さらに、私はマッキンゼーの東京事務所時代に 500 人以上のコンサルタントを採用・育成しました。ビジネススクールからの大量採用が難しかったので、学卒採用をし、世界のマッキンゼーの人たちと伍していけるよう育てていこうと考えたのです。

具体的に言うと、私の体験や知識を加味した、新しい問題に直面したときの解決法、問題解決法のスキルを軸にしっかりとした研修プログラムを作って厳しくトレーニングしたのです。その結果、今でも教え子たちは「あのときのトレーニングが役に立っています。世界中どこへいっても使えるので感謝しています」と言ってくれます。

ここへきて、マッキンゼー流問題解決法の本が何冊も出たことで、それに対する関心が高まっています。これまで日本のビジネスパーソンは問題解決に関してはまったく訓練されていませんし、現在の日本が置かれている状況を考えると、世界に通用する人材を育てないといけないというニーズが高まってきたからでしょう。

先ほども述べましたように、松下幸之助氏はじめ、世界的に名を馳せた方々というのは「質問力」による本質を見抜く力、そして問題を解決するスキルを持っていた。現代の日本にも、再びそのような経営者に出てきて欲しい。そんな強い思いもありました。

次章では、物事の本質を見抜ける「問題解決者」になるために必要なスキル、PSA(プロブレム・ソルビング・アプローチ)について解説をしていきたいと思います。

この記事は2013年6月1日に発行された小冊子「大前流問題解決法 第10版」(BBT大学オープンカレッジ 問題解決力トレーニングプログラム)の内容を、当サイト用に転載したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学名誉教授。